五木寛之さんの本、気がつくと手に取っています。
人はどう生きていったら良いのか。
悩むし、迷うし、一所懸命考えるから人生は面白い。
今、僕たちはものすごいスピード感の中で生きていて、なかなかゆっくり考える時間もないし、判断に迷っているうちに誤りの方向に向かっていることもあったりします。
でも実は、これはどんな時代背景でもあり得ることで、戦争を経験したから大変だったとか、通信技術がなかったから大変だったとか、応仁の乱で大変だったとか、みんなそれぞれがその時を一所懸命生きてきたから、今がある。
そして、僕らは大きな自然や長い歴史の中でどんな存在か、それは大きな川に喩えるならその一滴であります。
法華経でいうところのガンジス川の砂の数の一粒みたいな感じ。
今、日々の生活はいろんな面で社会保障があるところだけど、「生老病死」に関しては誰もが直面する課題。これにどう向き合うか。
人生に対する無意識の甘え、自分にとってなんだろうと考えてみたり。
やはり、これはこういうものだから仕方ない。と諦めるのではなく、考えることを大切にしたい。
それから、今の気持ち。
嬉しい事、悲しい事、楽しい事、辛い事。
いろいろある中でもその気持ちを隠さないこと。
惻隠の心なんていうし、日本人は特に恥の文化というものがあるからどうしても隠してしまう事も多い。
でも今はダイバーシティがよく言われ、個性がそれぞれの居場所で発揮しても良い時代になった。
今の気持ちをしっかり誰かに伝える事で仲間もできる。もしくは理解してもらえる、認めてもらえる。そういったことがあるんじゃないかな。
だからこそ、少し軽いくらいでもたくさんおしゃべりをしてみても良いのではないか。
孔子先生が説いていた「巧言令色鮮し仁」とは真逆なことになるけれど、言わなきゃ伝わらないから、多少軽くみられてでもたくさん言葉にして気持ちを表す。
ただし、誰かを攻撃したり、一方的に否定するような言葉は発しない。
空海は中国に行って密教を学んだと思っているけれど、じつはほとんど日本で、かつ自学で密教を学んでいた。
何で中国に行ったかというと、現地の本格的な教えの僧に認めてもらうため。
対面でお話しすることで認めてもらうことだった。
今はなかなか対面で何かをするというのが難しい状態ではあります。でも、わざわざ対面で何かをするには意義があります。
その意義はその当事者だけがわかることなんだけど、【人に直接会える】と機会を大切にしたい。
いつも前向きにいたいものだけど、人間だもの、そうではない時もある。
そういうときの自分を受け止め、今のある姿を尊重したい。
そして、本当にどう生きたいのか、時々チェックをして今はただ我慢すれば良いという思考にはせず、どうしたら良いのかしっかり考えて実践していきたい。
そう思わせられた本でした。
この本自体はかなり前に出たものだけど、本質的には今も同じようなことが応用出来る。